百合ミステリーノベル『SeaBed』(paleontology)が面白かった話 (感想・考察)
タイトルの通りだけど,paleontologyさん製作の『SeaBed』というノベルゲームが大変良かった.
販売サイト:
www.dlsite.com
公式サイト:
middle-tail.sakura.ne.jp
何を語ってもネタバレだし,販売サイトのあらすじですらネタバレ気味なので(少なくとも僕はそう思う),どう面白かったのか説明するのは難しい.ネタバレで面白さが損なわれる作品ではないと思うし,気にしすぎかもしれないが.ただ面白かったのは確かなので,騙されたと思って前情報なしでプレイして欲しい.体験版があるし,買うにしても650円で手を出しやすいので.
この記事の前半ではネタバレなしの感想を,後半ではネタバレありで感想とか考察を書いていく.前半は購入しようか悩んでいる人の参考になればと思っている.僕の力量でこのゲームの独特の雰囲気を伝え切れてるかはわからないし,体験版をプレイするほうが早いかも知れないが.後半はクリア済みの人とオタクコミュニケーションをするのが目的.お前の考察はおかしいとかマサカリ投げてくれるのは大歓迎です.
ネタバレなしの感想
説明しにくい面白さ
早速この記事の趣旨を否定するような話だが,このゲームの何が面白かったのか説明するのは難しい.冒頭で言っていたネタバレの問題を抜きにしてもだ.多くの人が感想で指摘するように,このゲームの大部分は淡々とした日常描写で構成されている.熱いバトルシーンがあるとか,最後の伏線回収の勢いがすごいとか,あるいはヒロインが可愛くて頭を空っぽにしても楽しめるとか,そういった分かりやすい面白さはない.特に後ろの2つは「百合ミステリーノベル」というジャンルから想定しうる類の面白さであるにもかかわらずだ.しかも,ストーリーの大筋を3行くらいで要約すると,どこかで見たことあるようなありきたりな話になってしまう.
でも確かに面白かったのだ.正直なところ,「雰囲気が良かった」とかの何の役にも立たない説明に逃げたくなる状況だ.実際,いつまでも触れていたい空気感だったし,それが面白さの一因なんだけど.
結局,何が面白かったのか
じゃあ何が面白かったのかと頑張って語ろうと思うと,やっぱりジャンル名の通り百合とミステリーになるだろう.
確かにこのゲームは淡々とした日常描写が殆どで動きに乏しい.ただ,そういう日常描写が積み重ねられているからこそ,主人公である佐知子と貴呼の関係性は,地に足のついたリアルなものになっていた.丁寧に描かれた23年分の彼女たちの関係性は,このゲームを他に比較するものが無いほど上質な百合作品にしている.「このカップリングがすごい2017*1」とかをやるとしたら,ヘテロなカップリングを含めても一位にするだろうと,年始に*2断言できるレベルのすばらしさだった.
ミステリー部分は,日常描写の中に矛盾した要素が紛れ込むというスタイルで,どことなく『水月』とか『最果てのイマ』を彷彿とさせた.普通「ミステリー」と言われて想像するものとは違うし,そういうのを期待すると面食らうかもしれないのでそこは注意.ネタバレになるのでこれ以上深い説明は避けるが,ミステリー要素が考察させて楽しませるためだけのものではないということは言及しておきたい.物語にちゃんと組み込まれていて,先述の佐知子と貴呼の関係性の描写を引き立てていた.また,(少なくとも僕にとっては)魅力的な世界観を提示するのにも一役買っていた.もちろん,ミステリー要素はそれ自身としても楽しかった.2周目をプレイしたときには伏線の巧みさに驚かされた.それに,ほとんどの謎はどこかしらに答えが有って解決することができた.そういう「ちゃんと考えれば分かる」という信頼感があったからこそ,2周目を楽しくプレイできたのだと思う.
他にも,ノベルゲームとして丁寧に作られていたのも面白さの一因だろう.このゲームでは,よくあるメッセージウィンドウがあるゲームとは違い,画面全体に文章が表示させる.それだけ読ませる類の作品だったし,実際それに見合うだけの読んでいて楽しい文章だった.淡々とした日常描写が多いのに,飽きずに最後まで読ませる力量はすごいと思う.キャラもよく立っていて魅力的だった.また,ノベル「ゲーム」としての面白さ,つまり,グラフィックとサウンドとの調和も良くできていた.キャラの立ち絵は種類も多く,ころころ変わる表情から考察に必要な情報が読み取れることもあった.背景もプレイヤーに謎を提示するのに使われていた.BGMはフリーのものを使ったそうだが*3,良い選曲で雰囲気に合っていた.
どことなく漂うノスタルジックな雰囲気も良かった.作中には古いものが多く出てくるし,80年代の空気感*4が想起されるところもあった.要所要所で使われる適切なCGやBGMも物寂しさを感じさせるのに役立っていたと思う.あと旅行好きとしては,旅の楽しさがよく描かれていたのも言及したい.
まとめ
長くはなったが,要するにこのゲームは魅力的な百合作品だった.百合を抜きにしても,面白い世界観や考え方を提示していたし,考察の楽しみもあった.しかも,丁寧に作られていて,いつまでもこの世界に浸っていたいと感じさせる作品だった.
この記事を読んで少しでも興味を持ってもらえたなら,体験版だけでもプレイして欲しい.序章の雰囲気が気に入ったなら,最後まで楽しんでプレイできると思う.
以下ネタバレ注意
ネタバレありの感想と考察
ここから先はネタバレ込みで,先ほどの感想には盛り込めなかったところを語っていく.ネタバレなしのときも言ったように,この作品の大きな魅力は,百合とミステリーだと思う.これらは相互に影響しあっているため,説明が被ってしまうところもあるが,まずはこの2つに分けてこの作品の魅力を語りたい.
百合作品としての魅力
『SeaBed』は百合作品としては,「佐知子が,恋人であった貴呼の死を乗り越える」というストーリーだ.こうまとめてしまうとよくある話だが*5,ディテールが丁寧に詰められているところがすばらしかった.また,乗り越え方も前向きでよいものだったと思う.
23年間にも及ぶ関係
まずなんといっても言わなくてはいけないのは,『SeaBed』は普通の恋人が死んで,その悲しみを乗り越えたという話ではないことである.佐知子と貴呼は5歳から28歳に至るまでの23年間,人生の大部分を共有している.そういう相手の死という重い状況を乗り越えていることが,この話を感動的にしている.
この佐知子と貴呼の関係性は,ネタバレなしの感想でも述べたように,淡々とした日常を通して地に足の着いたものとして描かれている.しかも,佐知子や貴呼が楽しかった思い出を振り返るという形で描写されることが多い.とくに,療養所での貴呼視点の話は,佐知子と過ごした日々の記憶を取り戻し,大切な人だったと再認識する過程だ.それゆえにプレイヤーは,佐知子や貴呼とともに楽しかった思い出を振り返り,互いがいかに大切な存在だったかを認識する.このようにして,佐知子と貴呼の関係性の深さという下地は作られていっている.
「あちら側」を通じても描かれる関係性
佐知子と貴呼の関係は,本作のミステリー要素である「あちら側」を通じても描かれている.序章での幻覚の貴呼との会話や生活,あるいは「あちら側」での繭子,早苗,梢,そして貴呼の会話から,彼女らの関係性がみてとれる.これらは現実の出来事ではないが,彼女たちが過ごした23年間の描かれていない場面において,似たような出来事があり,似たような関係にあったかもしれないと想像させるものになっている.
そもそも「あちら側」の世界をあれだけ緻密に作り上げること自体並大抵のことではない.これは8章「仕上げを前に」で療養所に向かう楢崎の独白からも読み取れる.
貴呼の世界がどれほどのものかは分からないが,この出来はどうだろうか.
ここはどこまでも拡大可能な世界,そしてあらゆる価値観を公平に内包出来る世界だった.
これだけの世界を作れた理由は,佐知子自身の能力によるところも大きい.ただ,「あちら側」の療養所は,無神論的である貴呼の「(死後どうなるかは)知らない人に決められるより,佐知子に決めて欲しい」という願いに応えたために出来た世界でもある.また,佐知子自身の,貴呼は思い出の中で生き続けるという願いにもよっている.どちらにせよ,貴呼のためにこれだけのことを成し遂げているという事実は,佐知子が貴呼をそれだけ大切に思っていたことをプレイヤーに感じさせる.
このように『SeaBed』においてトリッキーな要素である「あちら側」の設定は,佐知子と貴呼の関係を描くのに有効活用されている.
乗り越えない選択肢もあった
佐知子は結局貴呼の死を乗り越え「こちら側」で生きていくのだが,そうしない選択肢もあった.6章では,佐知子は「あちら側」に接近し,幼少期の貴呼とともに洞窟(おそらく「こちら側」と「あちら側」をつなぐもの)に迷い込む.助けに来た楢崎は,単に「こちら側」に戻って来いとは言っていない.「あちら側」の思い出の中で,あるいは療養所で貴呼とともに暮らし続ける選択肢もあると提案している.
しかも,この選択肢を選んだところで破滅的な結末が待っているわけではない.楢崎は,後のことは自分がなんとかするし,よほど親しい人間でもなければ気づかないよういつもどおり過ごせると語っている.また,七重(本当は母親である美紀)は実際にそういう選択肢を取ってしまっている.幼い一人娘を無くした七重は,佐知子と同じような症状に陥った.そして最終的には,自分がその娘だと思い込み,リリィについての記憶を失ってしまった.けれども,七重自身は楽しそうに生きているし,生活に大きな困難を抱えているようにも見えない.せいぜいリリィを悲しませた程度しか問題が起きていない.(この辺の話は,リリィの怪談話,6章で屋敷に帰ってきた後のリリィとの会話,TIPSの「二度目の旅」を合わせると分かる.)
こういう選択肢があったのにも関わらず,貴呼の死を受け入れ乗り越えたところに,佐知子の精神的な強さが表れている.これは,彼女を魅力的なキャラクターにしているし,「恋人の死を乗り越える」話としての質を高めてもいると思う.
前向きな乗り越え方
佐知子と貴呼の関係が丁寧に描かれていたところも良かったが,離別の乗り越え方も良くできていたと思う.これは,最後の電話のシーンによく現れている.彼女たちはこの電話で久しぶりに言葉を交わしたわけだが,その割にはなんとも無いように楽しかった思い出や,近況について語り合う.そして最後には次のような別れの言葉を交わす.
「幸せな日々だったわね」
「これからもね」
「...さよならね」
「うん.さようなら,サチ」
僕はこの向き合い方はいいなと思った.彼女たちはもう二度と会うことはできない.だけれども,楽しかった思い出は消えるわけではないし,生きる糧になる.彼女たちはそういう事を理解して前向きに乗り越えているし,それは1つの理想形だと思う.
この場面以外でも,「思い出や考えは死んだからといって消えるものではない」というテーマは繰り返し出てきている.例えば,南の島での星の光の話とか,序章のイタリア旅行での哲学者の話とか,7章での風邪をひいた早苗と貴呼の会話に現れている.他にも,終章での七重に対する佐知子のセリフがいい例だろう.
「でも,私にとっては,あの人といた時間だけが,時を経ても変わらずに輝いている.そのおかげで私はもうふらつく事もないし,今度は,この思いを伝えて誰かの支えになりたいって思うわ」
このセリフにも,「楽しかった思い出は消えるものでないし,それを糧に生きていけばよい」という『SeaBed』のテーマがよく現れている.しかも,佐知子が最終的には貴呼の死を乗り越え,そういう生き方を選んだことが読み取れる.
楽しかった思い出を振り返るときの物寂しさというのは誰しも体験したことは有ると思う.個人的な経験で言えば,卒業した学校の思い出を振り返るのがそうだし,あるいは小さい時間スケールで言えば,旅行を終えて帰路につくときこういった感情に襲われる.(後者は『SeaBed』においても,佐知子が屋敷から帰るシーンで描写されている.)『SeaBed』はこういった感情に対し,「楽しかったことがなくなるわけではないし,その気持ちを大切にして今日を生きていけばよい」という1つの答えを提示している.佐知子と貴呼も,始めからそういう風に思えていたわけではなく,後悔を抱えていた.それでも,最後にはちゃんと乗り越えたというのがよい話だったなと思うし,こういう過程があったからこそより説得力のあるものになっていたと思う.
「あちら側」という魅力的な世界観
『Seabed』のもう1つの特筆すべき面白い点は,「あちら側」の設定である.これはミステリー要素として考察させる面白さを生み出していたが,同時に物語としても意味のあるものだったと思う.先述のように佐知子と貴呼の関係を描くのに上手く使われているし,「あちら側」という世界観は魅力的なものだった.
「死んだ人は貴方の心の中で生きてる」を本当にやった衝撃
作中で登場人物が亡くなったことに対し,「<死んだ人>はあなたの心の中で,思い出として生き続ける」みたいな慰め方をするのはどこかしらで見たことがあると思う.そういう意味では,『SeaBed』の「あちら側」の設定は良くあるものだと思う.ただ,本当に思い出の中で生きてるという設定にしたのは僕は初めて見たし,めずらしいと思う.
どこが魅力的だったか
「あちら側」の設定が何で魅力的だったのかというと,知的好奇心を刺激したのと,本当にそうだったらいいなと思わせるものだったからだと思う.
「あちら側」は楢崎が佐知子の幻覚の原因を解明していく過程で説明されていく.この過程で,楢崎は,みんなが同じものを見ているわけではない,とか,脳は容量的にはすべてを覚えていられるはずなのに忘れてしまう,とか意識や記憶についての話をしている.この辺の話自体も面白かったし,つなぎ合わせて「あちら側」の設定にしてるのも思考実験として楽しかった.まあ,ガチでこの辺専門にしてる人から見ると,素人が曲解したつまらない話なのかも知れないけど...*6
それに,「あちら側」は本当にあったらいいなと感じさせるものだった.それは「あちら側」の設定が無宗教的,あるいは唯物論的な世界観で生きてる人間にとっての救いだったからだと思う.劇中,貴呼は宗教を信じていないことを匂わせる発言や,唯物論的な世界観に基づいた話をしている.ひとつは,10章の死の直前の佐知子との会話での,「私はどちらかというと無神論なんだけど」という発言だ.他にも,7章の風邪を引いた早苗との会話でこのような話をしている.
「こう見えても私は,理数系だからね.頭が死んじゃったら,何も考えられないと思う.だから,そういうのは(注:天国とか地獄とかは)あまり信じていないかもしれない.あれば,面白いと思うけど」
貴呼はこういう考え方をしているが,死の直前の佐知子との会話で「あちら側」の話を好意的に受け入れている.「あちら側」はそういう貴呼の死生観と衝突せずに受け入れられる救済だったのだと思う.現代だと貴呼のような死生観を持つのはありえる話だし,それでも何かしら死後の救いが欲しいなと思ってしまうのが人情だと思う.「死んでも消えてなくなるわけではなく,考えが伝わるとか思い出とかそういった形で残りうる」という『SeaBed』のテーマに添った形で,救われる話を提示してたから魅力的だったなのかなと思う.
物語との関係
「あちら側」の設定はそれ自身面白いものだったけど,佐知子と貴呼の物語にちゃんと組み込まれていたのも良かったと思う.「百合作品としての魅力」で語ったように,「あちら側」の設定は佐知子と貴呼の関係性を描く舞台装置として利用されていた.
逆に,佐知子と貴呼の関係性がちゃんと描かれていたことが,「あちら側」の設定に説得力を与えていたと思う.2人の関係性を理解していたから,10章の死の直前の会話を見てるとき,佐知子は貴呼のためだったら「あちら側」を難なく作っちゃうんだろうな,と感情的に納得させられたのだろう.
これは1つ前の節でも少し触れたけど,思い出の中の世界というのは「死が終わりではない.考えや思い出は他人に伝わることで残っていく」という『SeaBed』のテーマの極致だと思う.「あちら側」の設定は物語全体のテーマと合っていて,こういう点でもちゃんと物語に組み込まれいた.
独特の雰囲気
佐知子が死を乗り越えるところとか「あちら側」の設定は面白いものだったけど,それが面白いと分かるのは最後の最後である.そこにたどり着くまで何が楽しくて読み進めていたのかというと,独特の雰囲気だと思う.これは明確に説明できないのだけど,少し思ったところを書いてみようと思う.
ネタバレなしの感想でも言及したけど,文章力の高さとBGMの使い方の巧みさは,読み進めたいと感じさせるのに役立ってた.ノスタルジックな雰囲気とか,旅の描写も好きだった.あとは,貴呼は結局なんなんだという謎が気になっていたのとか,キャラクターや会話の魅力が要因だと思う.
謎を追いかける面白さ
1周目をプレイしたときの原動力の1つは,貴呼が結局何なんだという謎を知りたかったことだと思う.『SeaBed』では,最初に佐知子と貴呼の幸せそうな日々が描かれたあと,喪服の不穏なシーンが挟まって,貴呼が失踪したことが明かされる.そうなると,最初の描写があっただけに,貴呼はどうなったんだと先が気になり出す.序章の最後で既に亡くなっていたことが明かされ解決したかと思いきや,1章で貴呼の療養所での生活が始まって,再び状況が分からなくなる.結局貴呼はどうなったんだ,とか,佐知子と再会することはできるのだろうか,とかそういうことが気になったし,そういう疑問は先を読みたいと思わせるものだったと思う.
貴呼のことも謎だけど,他にも色々な謎がちりばめられている.「あちら側」と「こちら側」で屋敷が同じなのはなぜか,とか,時折会話がかみ合っていなかったり,記憶が飛ぶのは何でなんだろうとか.佐知子の症状も謎の1つだろう.
これら謎はなんなのだろうと考えながら読んでいると,いくつかの話がつながってるのに気づいて分かったりする.これらの謎の答えが気になるのと,自分で考えて答えを見つける過程が楽しかったのが読み進めたくなった一因だとおもう.全体像が分かった後の2周目では,伏線がしっかり張られているのに気づいてそれはそれで面白かった.
キャラクターの魅力
『SeaBed』のキャラクターはどれも魅力的だし,個人的には嫌いなキャラも居なくて楽しめた.
貴呼の明るい性格は,この物語の清涼剤だったと思う.他のキャラとの会話は楽しかったし,時折見せる予想外の行動を眺めているのは面白かった.それでいて,死生観とかでしっかりと独自の考えを持っているところも魅力的だったなと思う.
佐知子は,療養所の繭子,早苗,梢を通じて色々な側面が描写されていたのが良かったと思う.6章で「あちら側」で過ごすのを選ばず,ちゃんと貴呼の死を乗り越えたのに象徴されるような芯の強さも好きだった.
楢崎は,いつも佐知子のことを第一に考えていたし,最後には佐知子のために消えることすら厭わなかった自己犠牲が美しかったなと思う.それに,「何でも知りたがる」という好奇心旺盛な性格も魅力的なものだった.
リリィは楢崎と似ていて,あのような状況に置かれてるにも関わらず七重を支えてるのがいい性格だなと思った.ところどころで見せる悪戯っぽい表情も好きだった.七重は,作中でも言われているように貴呼と似ているところがあって,やっぱり似たような魅力にあふれたキャラだったなと思う.建築とかについて相当長く語ったシーンは性格が出てて良かった.七重とリリィは,作中ではなかったけど,何かしら救いがあればなと思う.
「こちら側」の梢と楢崎の会話は,佐知子が自分自身の幼少期を肯定する過程のようで面白かった.文や犬飼も,事務所での会話が楽しくてよかったと思う.
その他の感想とか
最後に,今までの感想で零れ落ちてしまった部分について語ろうと思う.
『SeaBed』はなぜ単調なのか?
『SeaBed』が淡々とした日常が多く,単調で動きがないということは多くの人が指摘している.僕もこれには同意するし,重要な特徴だと思う.
「いったいなんで単調なのか」という話について踏み込んだ議論をしている感想が2つあった.1つは Kastel さんのものである.
tanoshimi.xyz
Kastel さんは,『SeaBed』は普通やるようなカタルシスを使った描き方をせず,人間が実際にしているのに近い思考を描いているから単調になっていると指摘している.実際,人間はフィクションの登場人物がするように,首尾一貫した流れでいつも自分に降りかかっている困難について考え続けているわけではない.そして,こういう書き方は,佐知子たちをよりリアルなキャラクターにするのに役立っていると言っている.
また,Anonymous Catgirl さんは,意図的に単調にはしていないだろうという話をしている.物語の後半で楢崎は「あちら側」の状況を解決するために積極的に行動しているし,それは感動的でクライマックスにふさわしいものだというのが理由である.
medium.com
僕は両者の意見に同意する.この物語は単調だが,それは副産物であり,単調にすることそのものが目的ではないと考える.そして,単調に見える原因は,佐知子の客観的な性格のせいだと思う.
意図的に単調にしているのではないと考える理由の1つは,Anonymoous Catgirl さんの指摘と同じである.また,どことなく物寂しいノスタルジックな感情を強く想起する作品であることからも,わざと単調にしてるのではないと分かると思う.さらに決定的なのは,意図的にプレイヤーに衝撃を与えようとしている演出があるのだ.序章で文から貴呼の死を伝えられるシーン,あるいは10章で貴子が自身の死を見る場面では,一文のみが画面中央に表示される.この演出は,明らかに「意図的に単調にしている」という主張とは矛盾すると思う.
じゃあ何で単調に見えるのかというと,理由の1つは Kastel さんの意見と同じである.ただ,僕は佐知子の性格が客観的なことも付け加えたい.
佐知子は異常に物事を客観視している.これは作中のいくつかのエピソードから分かる.前にも取り上げた,診療所に向かう途中の楢崎の「ここはどこまでも拡大可能な世界,そしてあらゆる価値観を公平に内包出来る世界だった.」という発言がいい例である.他にも,七重は佐知子に告白するときに,佐知子は感情が薄いというのを指摘している.後は,2章で楢崎が「ここから何が見える」と聞いたのに対して,佐知子は「...私かしら」と答えている.楢崎は,主語がなかったのにも関わらず,自分自身が見えると答えたことを指摘する.この場面では楢崎は,佐知子は楢崎の視点で物事を考えているし,そういう思いやりから来た応答だろうとごまかしている.これは,佐知子は自分すらそこにいる登場人物の一人に過ぎないような,客観的な視点から物事を見ているからこその発言で,楢崎はそういう佐知子の性格を試そうとしていたのではないかと僕は思っている.
『SeaBed』は佐知子,楢崎,貴呼の3つの視点で話が進む.ただ,楢崎は佐知子が生み出した存在である.貴呼も,「あちら側」が佐知子の産物だと考えると,やはり佐知子のようなものだろう.そう考えると,この物語は全部,客観的な性格の佐知子の視点で進んでいる.そういうわけで,異様に詳細についての描写がしっかりとしていて,逆に感情が薄い,単調な描写になっていると考えている.
そして,これも Kastel さんが指摘していることだけど,そういう描き方はこの物語に地に足がついた感じを与えるのに効いていると思う.『SeaBed』の独特の雰囲気の一因は間違いなくここにあると思う.
考察
考察についての簡単なメモ.たくさん「この伏線すごいじゃん!」っていうとこがあって楽しかったんだけど,わざわざここに書くと雑多でつまらないと思う.そういうわけで,他人と意見が割れるかもしれなくて,しかも感想に効いてきそうな部分だけ書いていく.
楢崎について
楢崎の正体が佐知子が幼少期に作った存在(イマジナリーフレンドと言っていいのかな?)というのは多分解釈が割れないとおもう.ただ,楢崎視点での話が何なのかは意見が違いうるかも知れないので一応書いておく.僕は,「こちら側」での楢崎視点の話は,佐知子の身体で楢崎が行動していると解釈している.意識は二人とも有るときと,片方しかなくて記憶が飛んでいるときがある.この辺は作中に出てきた半球睡眠の話っぽい.
楢崎の正体に関しては明確な根拠があるわけではない.ただ,6章で屋敷に戻ってきたときのリリィさんの「半分」というセリフは,楢崎と佐知子が身体を共有してると読むのが自然かなと思う.他にも,図書館によくいたのは楢崎だが,佐知子が図書館によくいることについて七重が言及する場面がある.あと,ところどころで佐知子は自分の行動を忘れているのは,楢崎が代わりにやったからじゃないかと思う.まあ,そう考えるといろいろつじつまあうしいいじゃんということで許して欲しい.
七重について
七重は,本当は自分が死んだ娘だと思い込んでいる美紀(死んだ娘の母)である.(本文中のセリフと整合性を持たせるため,以下美紀のことを七重と呼ぶ.)これは,TIPS「二度目の旅」でリリィが,友人は死んだわけではないが記憶を失ったといっているのが一番の根拠になる.
ここでちょっとトリッキーだと思ったのは,七重が娘と映っている写真がモノクロなことだ.(少なくとも,僕は結構悩んだ.)このため,あたかもこの写真が古いもので,七重の幼少時代が移っているのだと錯覚する.ただ,6章の井戸での梢と佐知子の会話中に,梢が持っている6年前の井戸の写真はモノクロである.おそらく,七重が骨董趣味のため,モノクロの写真機を使っていたのだと思う.少なくとも,写真がモノクロだからといって,古いことは意味しない.まあこの問題は,七重が実は50代みたいな解決もできるんだけど,流石にそれは無いと思うし.
梢について
僕は,「こちら側」の梢は実際に存在している人物,「あちら側」の梢は佐知子が作ったものと考えている.「こちら側」の梢が実在していると思ったのは,そうじゃないと建築事務所見学の話とかでのリリィの発言が不自然になるのが理由.他にも,8章で「あちら側」に行った楢崎が「ここには小母さんや梢は居ない」ということを言っている.あと,梢からもらったペンギンの玩具がちゃんと残ってるのもよく分からなくなるし.
地味に「あちら側」の梢だけ貴呼のプレゼントの四葉のヘアピンをしてて芸が細かい.
最後までよく分からなかった謎
結局最後までよく分からなかったところのメモ.誰か何か分かったら教えて欲しいです.
年代が合わない問題.日記の年から考えると,クローバー事務所の開設は90年代頭だとおもうのだけど,公式サイト(http://middle-tail.sakura.ne.jp/seabed/story.html)を見ると80年代と書いてある.景気の話も踏まえると,バブルの最中に事務所を開設してるほうが適切っぽいけどどうにも日記とは矛盾するし困った.このことはがらがらさんも批評空間で指摘している.(がらがらさんの「SeaBed」の感想)
沢渡アンネリースって何だったんだろう.名前は出てくるしクローバー事務所にも関係してるっぽいんだけど作中まったく出てこない.謎.