いきるちから

気が向いたときに適当なことを書きます

思ったより運命論的に生きていた

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雙十節*1での紹興酒と中学・高校*2の友人との会話がどちらもダウナーにキマり,深夜に将来への漠然とした不安が爆発した.適量のアルコールでリミットが外れつつも思考は回せる最悪の状況の中,「昔ほど目がギラついていない(≒昔より落ち着いた)」という友人の言葉が脳内に響き続け,今までやこれからの人生の正しさを問いかけてきた.友人の言葉はポジティブな*3ものであるが,一方では昔ほど精力的に生きられていない現状を意味していた.活力を失っているのは,これから進路を切り開かなくてはいけない大学院生にとって致命的に思えた.

いったい何が自分の中で変わったのだろうと考察するうちに*4,自分は運命論的に生きるように変わったのだという事実が見えてきた.自分はそのように生きているつもりはなかったが,考えるといくつか状況証拠が挙がってきた.そこでこの記事では,ダウナーにキマっていた時の運命論的な生き方という考察についてまとめていこうと思う.具体的には,

  1. 【定義】どのような状態を「運命論的に生きる」と呼ぶか.いつからそうなったか.
  2. 【現状認識】 自分自身の行動のどういうところに運命論的な生き方が現れているか.
  3. 【功罪】現状認識での議論を踏まえ,この生き方の利点・欠点を分析する.

という3つの部分に分けてまとめていく.自分の備忘録とするのが主な目的だが,読み物として面白いものとなっていれば幸いだ.


運命論的な生き方とその始まり

この記事では「運命論的な生き方」という語で,自分が抱えている以下のような状況を指すことにする:

  • 人生はどうにでもなるし,どうにもならない.なるようにしかならないと感じる;
  • 運命に逆らわず(= なるようになった結果に逆らわず受け入れて)生きるのが人として自然であるという根拠のない信念がある.

このような感覚を獲得した原因は,おそらく学部一年生の時のサークル活動のブラックさだと思う*5.後述するように,このサークル活動前までは強迫的に勉学に励んでいたのだが,この後ではそういった感覚や行動が消失している.このサークル活動は,ブラックで異常な事態が頻発するのを耐えつづける苦しい状況であったが*6,一方で周りの人々の助けもあり最悪の事態にはならずある程度の形は保っていた.この経験が,「なるようにしかならない」というある種の諦念と,それでも結果はそれほどひどくはないという楽観視を植え付けたのだと思っている.

他にも単に加齢で中二病をこじらせていた時ほどは元気ではないというのはあると思う.ただ,自分にとって上記のサークル活動は大きいものであったと感じていて,この前後での行動の不連続さからも,大きな原因はこのサークル活動だったのだろうと考えている.

ケーススタディ ― 運命論的な生き方による諸現象

この節では,運命論的な生き方が原因と思われる現象についてまとめていく.目的の一つは,「運命論的な生き方」という統一的な視点からさまざまな現象が眺められることをもって,そのように生きているという傍証にすることである.もう一つは,この先の功罪の分析につなげる材料にするためである.

ケース 1 研究者になるという強迫観念とその消失

一つ目の例は前述したもので,昔は持っていた研究者になるため強迫的に勉学に励んでいたが,この状況が消失したことである.高校生の時に進路として研究者になろうと志したものの,ちょうどオーバーPD問題が燃えていた時期でもあり,それが厳しい道であると様々な形で聞き及んでいた.そういうわけで競争に勝ち抜かなくてはという意識は強く,この時期は危機感を持ちながら色々な分野の教科書を読み漁っていた.それはそれなりに楽しかったし,今でも役に立つ有益な時間の使い方だったのだけれど,生きづらい状況だったのは確かだと思う.

この状況は前述のサークル活動を機に変化していった.今でも研究者として生きようと思っているのは変わらないが,昔ほど強迫的に努力をしているわけではない.この原因の一つは「研究者になれるかどうかは結局時の運なところはあるし,あまり頑張りすぎずに,最悪ダメだったらそれでいいくらいの気持ちで生きていこう」と運命論的な生き方を採択したことだと思う.ただ,このことに関しては他の要因も考えられるので補足をしておく:昔と比べて色々な遊び*7を覚えたことで,自分は思ったより俗な楽しみを味わえる人間だと認識して,研究者以外の選択肢が広まったのは一つの要因である.実際,今となっては別にある程度お金と余暇がある仕事だったら,それなりに楽しみを見出して生きていけるしそれでいいやと思っている.また,こういう考え方は,メダワーが『若き科学者へ』で「俗な」生き方を肯定していたのを読んだことでより強化された.

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ケース 2 消極的な人間関係

二つ目の例は自分自身の人間関係についてである:自分は人間関係において消極的である.実際,大学に入ってからの友人で,自分から積極的に話しかけて作ったものはいない.この原因はいくつかあるが,その一つが運命論的な生き方である.すなわち,自分は「人間関係に積極的に関与すべきではないし,なるように任せる(来るもの拒まず・去る者追わず)が正しい」という考えを持っている.本題とは関係ないが補足をすると他の理由としては以下のようなものがある:自分は人見知りだし,どちらかというと人間嫌いである;加えて,「理想社会においては,人間は互いに承認した相互作用以外をせず生きていくべき」という信念がある*8

ケース 3 行き当たりばったりな行動・意図的な計画性の放棄

三つ目の例は,計画性の放棄である.自分は計画を立てず行き当たりばったりに生きるのが好きである.例えば旅先で観光をする際は,きちっとした予定は立てず,近くにあるそれっぽい観光施設を適当にふらつくのを好むぶっちゃけた話をすれば,博士進学を決めて将来が不安定な中で生きているのもそういうところがある.まとめると,自分は行き当たりばったりな行動をして,それでも帳尻があわせられたことに快楽を覚える人間である.これらは運命論的な生き方の好例だろう.この例に関しても他の要因はあって,ハイリスクな行動を好むというのも理由の一つだと思う.

運命論的な生き方の功罪

自分にとっての運命論的な生き方の利点は,ケース1で述べたように,研究者にならなくてはいけないという強迫観念から解放されたことである.一方で欠点はケース2やケース3のような積極的な行動や長期的な計画を欠くことによる不利益だろう.また,研究者になるという目的を果たす上では,生きづらさを抱えた上であったとしても,強迫的に努力し続けていた方が良かったのかもしれない.

*1:中華民国国慶日

*2:中高一貫校の出身なので同一

*3:推定

*4:正確には,酔っ払った勢いでツイッターにぶちまけるうちに

*5:ブラックではあったものの,色々と代えがたい経験ができ人生の糧になっていて,トータルとしては感謝していることを明記しておく.

*6:この時病院にいったら何かしら診断が出たのではないかと思っている.建物に入るだけで吐き気がする等の身体症状が出る異常な事態だった.

*7:旅行とか

*8:この2つ補足したの理由に関しても,どこかの機会でまとめたいと思っている