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いきるちから

気が向いたときに適当なことを書きます

『科学哲学』(サミール オカーシャ)

本の紹介 科学

まえがき

今は数理工学を学んでるけど院では科学寄りの分野に戻るつもりなので、さすがに一回くらい科学哲学を体系的に学ぶべきだろうと思って読み始めた。真面目に講義取ったり本読んだりをしたことはなかったけど、どこかしらで聞いた話がちらほらあったしとくに詰まることなく読めた。中高大の教育環境がよかったんだなあと思う。圧倒的感謝。あとはちょうど高校のとき原発事故があって、この手の話に向き合わざるを得なかったのもあるかもなあ。

科学哲学 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

科学哲学 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

読んだのは上の本。

内容のまとめと思ったこと

1 科学とは何か

科学革命以降の科学史をふりかえりつつ、「なぜ科学哲学を学ぶのか?」や「科学とは何か?」といった問いに挑んでいく章。当然だが完全な解答が与えられるわけではない。

科学とは何か?

科学と擬似科学をどう区別するのか?という例を用いて、科学哲学がどう「科学の研究技法」を分析するかを説明している。この問いに関して一番有名なのはホパーの反証可能性だろう。実際この本でもまず先にホパーについて触れられている。

反証可能とは、理論は何らかの予測をなし、場合によっては観察結果と矛盾してその理論は棄却されうることである。ホパーは反証可能性が科学の根本的な特徴だと主張した。しかしこれはナイーブ過ぎると指摘されている。例えば、地動説は天王星の軌道予測に失敗し続けた。そこで天文学者は未知の惑星が存在していると考えたし、実際それは正しかった。しかしこの行いはホパーの意味で正しいのだろうか?天王星の軌道予測に失敗した時点で地動説は棄却されるべきではなかったのだろうか?未知の惑星の存在を仮定してよいのなら地動説は反証不能な理論になってしまうのではないだろうか?

ホパーの基準は単純すぎる。このことは、どこまでが科学か境界線がひくことがそもそも可能なのかという問いを投げかけている。

2 科学的推論

科学は帰納的な推論を用いるが、これは論理的に正しいとはいえない。確率概念を持ち出すことで正当化しようという試みはあるが、必ずしもうまく行っているわけではない。

ヒュームと自然の斉一性

ヒュームは帰納的な推論は正当化できないと主張した。その過程で、帰納的な推論は「自然の斉一性」を仮定していると指摘している。すなわち、「未調査の対象は、重要な点で調査済みの対象と類似している」という仮定があると主張している。ヒュームはこの仮定は証明できないと考え帰納的推論を否定した。「経験的には帰納的推論がうまくいっている」という主張そのものが帰納的になってしまう。

ところで自然の斉一性は人間原理から言えるのではないかと僕は思う。『非線形な世界』で類似した議論があった。人間は知能を持つよう進化してきたため、知能は適応的である。知能が適応的であるためには、自然は斉一的でなければならない。ゆえに自然は斉一的だ、といえる。進化論を基礎においている問題点はあるけれど、そこを認めれば自然の斉一性はそこまで不自然な考えではないのでは。(まあ僕がドーキンスとか読んで進化論好きとして成長したからそう言えるんだろうけど)

IBE(Inference to the Best Explanation)

帰納的推論の他によく使われる、演繹的でない主張のパターンがIBEである。例として以下のものがあげられている。

食料置き場のチーズが消えて、あとには切れ端がいくつか残されていた。
昨晩、食料置き場からは何かを引っ掻くような音が聞こえた。
したがって、チーズはネズミに食べられたのだ。

個人的にはグラフィカルモデルで条件付確率がどうなるか、という話だと思うとわかりやすかった。そう思うとただ単にこのシチュエーションでは(適切な事前分布とグラフ構造と条件付確率を入れれば)ネズミがチーズを食べた事後確率は上がるという話になる。ただ、証拠がどちらの仮説を支持するか、には使えそうだけどどちらを採択するか、には使えなさそうだよなあと思った。結局確率解釈だと事前分布の気持ち悪さがある以上「どちらを採択するか」という事前分布が絡む質問には答えにくい。

IBEの科学における例は、原子説がブラウン運動等さまざまな現象を説明したこと、あるいは進化説がさまざまな現象を説明したことから正しいと考えられてることが挙げられていた。

IBEが帰納的推論を含むとも、逆にIBEは帰納的推論に依存するともいろいろ言われてるらしい。

確率と帰納法

帰納法を確率で正当化したいけどそもそも確率の解釈がやばいという話。この辺の話は次の本に詳しく書いてあった。

科学と証拠-統計の哲学 入門-

科学と証拠-統計の哲学 入門-

頻度主義は適応範囲が狭い。ベイズは事前確率がキモい。どっちにしろつらい。

科学における説明

科学による「説明」とは何なのだろうかということを考える。

ヘンペルの被覆説明モデル

「説明要求型の問い」(「なぜ...」)に対する解答を与える。一般法則+個別的事実から説明すべき事象を説明する。一般法則が個別の事案をcoverするとして答えるので被覆説明モデルと呼ばれる。

2つの比較すると面白い例が挙げられていた。

一般法則     光は直進する
         三角法の法則
個別的事実    太陽の行革は37度である。
         旗ざおの高さは15メートルである。
説明すべき現象  影の長さは20メートルである。

一般法則     光は直進する
         三角法の法則
個別的事実    太陽の行革は37度である。
         影の長さは20メートルである。
説明すべき現象  旗ざおの高さは15メートルである。

太陽光が旗ざおにあたり影を落としていて、その長さを三角関数を使って求めるシチュエーションである。1つ目の説明は影の長さがなぜ20メートルかを説明している。これは予測にも使える。つまり同一の議論で影の長さは20メートルだと予測できる。つまりこのモデルにおいて予測と説明は対等である。一方2つ目の例は、旗ざおの高さが15メートルであるという推定・予測にはなっているが説明とは言いがたい。ゆえにヘンペルのモデルには問題がある。

ヘンペルの言う「説明」は「予測」とか「推定」に近いと僕は考える。ヘンペルのやっていることは確率的に解釈できる。つまり、適切な事前分布と条件付確率の下、影の長さや旗ざおの高さを推定しているというように見れる。「説明」とは言っているものの、やっていることは統計的、確率的な推論ではないのだろうか。そもそもヘンペルの被覆説明モデルは「なぜ」という問いに答えていないように見える。これが上の反例につながっている。筆者は説明するものとされるものの関係は対称ではないし、それゆえ1つ目を入れ替えた2つ目は破綻したと述べている。僕もこの考えには同意する。「予測」や「推定」はベイズの定理を使えば説明するものとされるものを反転させることができて、ゆえに対称に扱っている。一方2つ目の説明が示すように「説明」はそうではない。だから「予測」と「説明」は違う概念なのだろう。そして、反転可能なヘンペルの「説明」は「予測」というべきものではないか。

この話はautomation scienceに対する気持ち悪さにもつながると思う。もし仮に機械学習とかで何らかの「法則」が発見された、あるいは何らかの現象が「説明」されたとき、それは科学と言っていいのだろうか。僕は常にYESではないと思う。科学は人間の知的好奇心を満たすものであるべきだし、そこから「説明」の非対称性が生じるだろう。人間は2つ目の説明には満足しない。これは「説明」ではないと思う。このことは、「説明」の非対称性の良い例ではないか。機械学習等で自動的に発見されるものは「予測」「推定」の側のものであり、適切に人間が解釈できないのであれば「説明」にはなりえないだろう。

経口避妊薬を飲んでいるから妊娠しないおじさん

確率でいうと、事象 AB から独立なとき、 p(A | B) = 1だとしても、 B A の原因とは言えないよねという話。

ただこの手の因果関係の話はそもそも因果の話が哲学的に面倒らしい。

多重実現

「灰皿」はさまざまな物理的実現を持つ。こういうのを多重実現という。多重実現があるから物理で他の分野を説明しきるのは厳しいのではというおはなし。

4 実在論反実在論

本で言ってたのは以下のようなこと。
実在論->物理世界は人間の知覚と独立にある。
反実在論->観測不能なものは存在しない。説明の道具としてあるだけ。もしくは存在はするが、それについての命題の真偽は決定できない。(ex. 電子の電荷は負)
反実在論は最近だと前者を言う人はあまりいないらしい。

理論的に存在するとされていたが本当にはなかった例としてエーテル、フロギストンがある。実在論的にはつらい。一方反実在論も観測可能/不能の区別がつらい。

ある現象を説明する複数の理論があったときどう選択する?実在論によるなら一つしかあってはいけない。

観測可能であっても観測してなかったら同じ問題が生じうる。要するにこの問題は帰納法の問題なのでは?

いろいろ考えてみたけど僕はどちらの立場をとると決め切れなかった。科学がバックグラウンドな人間だけあって、どちらかというと実在論よりだけど。観測不能とされているものが本当に観測不能なのかは微妙な問題だと思った。電子とかが例として挙げられてたけど本当だろうか?今は知られていない現象によって「観測」できてしまう可能性は否定できるのだろうか。それも精巧な実験装置すら要らないやつだったりしないのだろうか。

5 科学の変化と科学革命

パラダイム->受け入れられている基本前提+それら基本前提を用い解かれた問題
通常科学->パラダイム内で矛盾する観察結果を処理
パラダイムシフト->通常科学がどうしようもなくなったら、最終的に違うパラダイムが支持されるようになる。

クーンはパラダイムシフトは合理的に進まないと主張した。またパラダイムシフトが急速に進む理由は、科学者間のプレッシャーだと指摘している。また合理的にパラダイムどうしを比較できないため、科学の進歩は直線的なものではないと主張している。

上の主張の根拠が「通訳不可能性」である。パラダイムが違えば互いに議論することはできず、ゆえにパラダイム間の比較を客観的に行うのは不可能である。また実験データの「理論負荷性」の問題もある。実験データそのものが理論に依存してしまっているのだ。(例えば望遠鏡によるデータから何かを言うとき、幾何光学の知識を使ってしまっている。)

これに関してだが、僕はそれほど問題とは思わない。パラダイムシフトの例として挙げられる、天動説と地動説やニュートン力学相対性理論においては比較はできている。確かに必ずしも「通訳可能性」があるとはいえないが少なくとも我々が遭遇した限りで問題になった例はないのではないか。(これ自体帰納的な議論だけど)。理論負荷性についても、この2つの例では両者でデータについて合意がどれるはずである。

パラダイムの両立不可能性と翻訳不可能性は矛盾するのではという話があるらしい。

話的にポストモダンっぽい反科学なのかと思ったが、クーン自体はそう主張したかったわけではないらしい。

6 物理学・生物学・心理学における哲学的問題

今までみたいな一般論以外に個別の分野も科学哲学は扱うよというお話。

7 科学とその批判者

科学至上主義

科学自体が時とともに変化しているし、一定の「科学的手法」が存在するわけでもないからそもそも科学至上主義に賛成/反対すること自体どうなのという話があった。

科学と宗教

ID説の理屈って別に進化論以外にも適応可能だよねと指摘されてた。